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「経済学の古典を読む」シリーズの二本目の記事では、アダム・スミスの『道徳感情論』の要約・解説を行う。
典拠としては日経BPクラシックスの『道徳感情論』を用いた。
スミスの道徳哲学の方法論の主要部分は、私たちの日常生活、その道徳実践や感情経験の読解であって、それは一面ではいわば「日常生活の解釈学」である。それは私たちの日々の感情経験を読み解くことによって、私たちの感情の仕組みに埋め込まれ、日々の現実で実践されている道徳、その基準と原動力を明示的に取り出そうと試みるのだ。
そして、そこでスミスが一番のキーワードとしたのが「共感」である。
なので、本記事では、この「共感」についての理解を固めるところから出発し(第一節)、その「共感」に基づいて、いかにスミスの道徳体系が基礎付けられるかを見たうえで(第二節)、スミスの道徳哲学に内在する緊張関係、そこに走る「裂け目」を考察したうえで、共感と並ぶスミス道徳哲学のキーワードとしての「公平な観察者」を、その「裂け目」を塞ぐものとして位置付ける(第三節)。このことは私の解釈では、スミスの道徳哲学が、道徳「感情」論としては貫徹し得なかったことを意味する。
最後に第四節では、以上の自身の解釈を批判的に再検討し、『道徳感情論』と『国富論』との関係の問題に言及する。また、第五節では、現代の思想の動向と関連づけて、スミスの先見性を考えるヒントとしたいと思う。
1、「共感」とは何か?―想像的な立場交換・裁きの場・当事者と観察者
古典は、往々にして、それが論じられ言及されるほどには、読まれていない。多くの人が、それを手にするが、読み終える人は少ない。だから、古典のイメージはその冒頭の数ページで規定されていることが多いのだ。それくらいまではみんな読むからである。
さて、スミスの『道徳感情論』も、この例に漏れない。この書の通俗的なイメージを決定している、その冒頭を引用しよう。
人間というものをどれほど利己的とみなすとしても、なおその生まれ持った性質の中には他の人のことを心に懸けずにはいられない何らかの働きがあり、他人の幸福を目にする快さ以外には何も得るものがなくとも、その人たちの幸福を自分にとってなくてはならないと感じさせる。他人の不幸を目にしたり、状況を生々しく聞き知ったりしたときに感じる憐憫や同情も同じ種類のものである。(p.57)
これを読むと、スミスは人間本性に関して、利己性を認めつつも、他者の幸福を気にかけ、またその不幸に同情するような利他性を認めたと感じられる。人間は他者の不幸に寄り添う優しさ、思いやりを持っている、と。
そして、スミスの道徳哲学の根本概念は「共感」なのだから、人間がこういう優しさをもっていて、他者に寄り添い、「共感」をすることこそが、人間の道徳性であり、それによって社会秩序が形成されるのだ、と連想的に考えられることになる。
このような考えのなかで、いわゆる「アダム・スミス問題」も出てくるのだろう。曰く、スミスといえば『国富論』の「神の見えざる手」ではないか、それによれば、利己的な人間が市場で自己利益を徹底的に追求することで、社会にとって最善の状態がもたらされるのではなかったか?スミスの見る人間は利己的なのか、利他的なのか?『国富論』と『道徳感情論』は矛盾しているのではないか?
しかし、このような解釈はスミスの「共感」という言葉に込めた意味のほんの一部しか捉えられていない。私たちは冒頭だけで判断せず、スミスが「共感」に込めた意味を丁寧に紐解いていかなければならない。
1-1、共感の前提:想像力によって他者の立場に身を置く「形式的共感能力」
さて、スミスは、「他者と同じ感情を抱くこと」という意味での「共感」がいかにして生じると考えたのだろうか。
スミスは、共感は、「他者の感情が表情や言葉などで表出されると、それへの反応として私にも同じ感情が自動的に生じる」というようなことではないと考えた。スミスにとって、共感は感情の伝染のようなものではない。
スミスの答えは、「想像力を使って、自分がその他者の立場だったらと自らをいわば他者の立場に置き移したうえで、私ならその時どう感じるかをシミュレートする」結果として「共感が生じる(or生じない)」というものである。
スミス曰く、私たちは死者や重度の認知症の人の立場に身を置いて、その孤独や理性の崩壊を悲しむが、ここでは他者の感情の感染はあり得ない。死者には感情はないし、認知症者も自身の理性の喪失を悲しんでいない。だから、悲しみは、想像力を通じてその立場に身を置いた私たちにおいてのみ、生じているのである。
こういうわけで、他者と同じ感情を覚える、いわば「実際の共感」「実質的共感」の前に、スミスは、想像力によって他者の立場に身を置き、そこで自らに生じる感情をシミュレートするという、いわば「形式的共感能力」とでも呼ぶべきものの作用を想定するのだ。
1-2、道徳的判断の基準としての「共感可能性」―共感は裁きの場で(も)ある
さて、このように共感を、他者の感情の自動的伝染の結果ではなく、想像力による立場交換の上でのシミュレーションの結果とみなすなら、すでに示唆したように、実際に他者と同じ感情を覚えるという意味での「実質的共感」が、生じることもあれば、生じないこともあることになるだろう。
私のシミュレーションの結果である感情は、他者に生じている感情と同じであることもあれば、違うこともありうるのだ。
こうして、他者への一方的な寄り添いのイメージを喚起しがちな通俗的な「共感」観とは異なり、スミスのいう「共感」は、道徳的判断の基準、裁きの場として機能しうる。他者の感情に共感しうるとき、私たちはその他者の「感情=行為」を道徳的に「是認」し、共感しえないときには、是認しないのだとスミスは言う。
かくして、スミス的な「共感」は、一面では、その実、他者を道徳的に裁く法廷なのである。「共感しうるかどうか」、すなわち、「共感可能性」こそ、スミスが第一に掲げる道徳的判断の基準なのである。
1-3、観察者だけでなく当事者の立場も、あるいは当事者の立場こそ、重要だ
もう一つ、本書についての通俗的なイメージが問題なのは、他者の不幸(や幸福)に寄り添う共感を一方的に強調することで、それがスミスのいわゆる当事者と観察者の立場のうち、観察者の立場だけを語っていることである。
スミスの道徳哲学にとっては、観察者の立場だけでなく、当事者の立場も、いや、ある意味では当事者の立場こそ、重要なのである。
当事者とは、ある感情を抱いている人だ。たとえば、ある人が深い悲しみを抱き、メソメソとしていたとする。その人が当事者だ。対して、観察者とは、さしあたり自身は何も感情を抱いていないが、この当事者を見る立場となった人のことだ。
この観察者は先の「形式的共感能力」を発揮し、当事者の立場に身を置いて、自らの感情をシミュレートしようとする。そのために観察者は聞くだろう、「何があったの?」と。
そこで、たとえば、答えが「突然の事故で親(や子)が亡くなった」というものであれば、一般論として、おそらく観察者は当事者の深い悲しみを「もっともだ」と思い、その悲しみに心を寄せて共感し、その当事者の悲しみを「是認」するだろう。
他方、もし答えが「スマホを落としたところ、それがたまたま通りかかった車に轢かれて、完全にぶっ壊れた」というものであれば、観察者の反応は、「確かに残念ではあるけど、流石に大袈裟だ」「大人がいつまでもメソメソするほどのことじゃない」というものになるだろう。
観察者は形式的共感能力を発動したが、その結果は実質的共感ではなく、当事者の過剰な感情にいわば「引いた」というものであり、観察者は当事者を「是認」しなかったのだ。
スミス曰く、他者と感情が一致することとしての「共感」は非常に心地よい快であり、人間は「共感」をこの上ない仕方で求める。共感の対象となる感情が、喜びのような肯定的感情であれ、悲しみのような否定的感情であれ、感情の一致としての共感とその自覚は快なのだ。現代日本でもよく聞く言い回しを使えば、「(分かち合われた)喜びは二倍、悲しみは半分」なのである。
だからこそ、観察者は「共感しよう」と努めるのだが、他方の当事者も「共感される」ために努力することになる。その努力とは、先の例からも分かるように、自らの感情を、その原因の大きさに見合った度合いに調整すること、強すぎる感情を抑え「自制」することである。
このことを捉えて、「共感」を通じた道徳的判定を、スミスは「適切さ(propriety)」の判定と呼ぶ。スミスはこの「適切さ」を「比例(proportion)」という語を強く意識しながら使っている。「共感しうるかどうか」を通じて判定されるのは、当事者の感情の(種類と)強さが、その原因となった事象の深刻さに「見合っているかどうか」「比例しているかどうか」なのだ。その感情が原因に見合っているとき、観察者は自然と共感できるが、逆に見合っていなければ、観察者は「引いて」しまうのである。
そして、スミスが社会秩序の根底に据えているのは、共感しようとする観察者の一方的な優しさではなく、共感を求める当事者と観察者の相互的努力なのである。すなわち、心地よい共感を達成しようと、観察者は当事者に寄り添おうとし、当事者は観察者が共感しやすいように自制する。このことを通じて、感情の一致としての共感が達成され、人間と人間との間に、対立ではなく一致が、すなわち、秩序が形成されるのである。
そして、スミスの道徳哲学にとって、ある意味では観察者の立場よりも当事者の立場の方が重要だと言えるのは、この両者のうち、優れて道徳的主体(道徳を実践する主体)という立場に置かれているのは当事者だからである。すなわち、観察者は共感しうるかを通じて道徳的判定を行う者であるのに対して、当事者は、道徳的判定を意識して、道徳的に是認されるべく自らを律する主体なのであって、道徳が決定的な意味で実践されているのは当事者においてなのである。
1-4、さまざまな感情の「適切とされる度合い」の違いについて
先にスミスの試みの一面を「日常生活の解釈学」として特徴づけたが、それが最もよく表れている部分の一つが、さまざまな感情の「適切とされる度合い」の違いについてのスミスの分析である。
スミスによれば、愛情のような他者に対する好意的な感情は共感されやすいが、怒りのような敵対的な感情は共感されにくい。つまり、好意的な感情は「適切」とされる度合いが高く、敵対的な感情は低い。
なぜかというと、このような当事者の感情に面したとき、私たちは、その感情が向けられる受け手の側にもとっさに「形式的共感能力」を発動するのであって、この受け手への共感は当事者の感情が好意的な感情の場合にはポジティブな感情を生み出し、敵対的な感情の場合にはネガティブな感情を生み出す。
このことが、好意的な感情の場合には、その感情への共感を促進する力となり、敵対的な感情の場合には、その感情への反感(非-共感)を促進する力となる。
だから、好意的な感情の表現は大袈裟であっても許容される傾向がある一方、怒りなどの敵対的な感情はよほどの理由があったりしない場合には、相当に抑制されていないと社会的に許容されないというわけである。
あるいはスミスは同じ痛みであっても、肉体的な痛みよりも精神的な痛みの方が共感されやすく、「適切とされる度合い」=「その表現が許容される度合い」が高いという。いくら形式的な共感能力を発揮してみたところで、物理的な肉体的な怪我や病が作り出す痛みは再現が困難なのに対して、結局は観念が生み出している精神的な痛みは、想像力を通じて再現しやすいからである。
また、スミスは恋愛感情は共感されにくいという。というのも、恋愛感情は、常に対象に「比例」しておらず、対象の価値に「釣り合っていない」ないからである。それはよく言われる通り、ある人と他の人々との差異を過大評価することによっているのだ。だからこそ、スミスによれば、しばしば恋愛感情は仲間内では冗談めかして、本気ではないという形で語られるのだという。他方、失恋の痛みなど、恋愛感情から派生する感情については、この限りではなく、多くの人がそれを経験的に知っていることによって、大いに共感されやすいのだという。
2、「共感」が支える道徳体系へ―スミス徳論の構成
さて、本筋に戻ろう。この「共感」論を土台として、いかにしてスミスの道徳哲学、その徳論の体系が立ち上がってくるかを見ていこう。ここで徳とは、道徳的卓越性のことであって、道徳的実践において私たちが目指すべきとされるあり方のことである。
まずは第一節で明らかになったスミスの共感論、スミスの道徳哲学の土台を要約しておこう。
一方に、何らかの出来事に直面し、ある感情を抱いている当事者がいる。他方に、それを見ている観察者がいる。
観察者は想像力によって自らを当事者の立場に置き、そこで自分が感じる感情をシミュレートする。そして、それが当事者の実際の感情と一致していれば、当事者に共感して、当事者を道徳的に是認する。
共感は快であるから、観察者も共感しようと努力するのだが、他方の当事者も共感されようと自らの強すぎる感情を弱めるべく自制する。こうして感情がその原因に「比例(proportion)」したものとなるとき、その感情は「適切さ(propriety)」を持つものとして是認されるのである。
スミスによれば、「道徳的に是認する」とは、すなわち、「共感すること」である。ということは、スミスにとって道徳的価値なるものは、このような感情の派生物、あるいは、その言い換えなのだ。「道徳的に是認する」とは、「共感する」の言い換えであり、次項を先取りするなら、「功」であるとは、「感謝される」の言い換えであり、「罪」であるとは、「復讐心を抱かれる」の言い換えなのである。
2-1、「適切さ」から「功罪」へ―適切性評価の二重化を通じて
さて、スミスによれば、道徳的な是認の基準は「適切さ」だけではない。ある意味ではより重要な「功罪(merit/demerit)」という基準も存在する。これらは単に道徳的に是認されたりされなかったりするのみならず、功は「何らかの報酬を与えられるべきもの」であり、罪は「何らかの処罰を与えられるべきもの」である。
スミスは、この「適切さ」と「功罪」の違いを以下のように整理する。
ある原因があって、当事者に感情が生じる。たとえば、「熱中症で倒れてしまったところ、通りすがりの人が救急車を呼んでくれた」といったことがあれば、当事者はその人に感謝の感情を抱くだろう。そして、感情はしばしば行為につながる。この場合なら、感謝の念から何かお礼をしようと思うだろう。感情が常に行為に結びつくわけではないが、有意味な行為は常に何らかの感情に裏打ちされているというのがスミスの見方である。
さて、「適切さ」とは、先に述べたように感情が原因に比例しているかどうかを評価するものであり、「感情=行為」と、その原因となっている事象との釣り合いを測るものである。それに対して、他方の「功罪」は、この「感情=行為」が他者にもたらす結果、あるいはより正確には行為の意図を評価するものであり、それが他者にとって「良いことをしようとするものか、悪いことをしようとするものか」を見るものである。
ここで「結果」ではなく「意図」、「良いことか」ではなく「良いことをしようとするものか」というのは、実際に行為がもたらす「結果」は、さまざまな偶然に左右されるものであり、何をしようとしたかという「意図」こそが道徳的評価の本来の対象だとスミスは言うからである。もちろん、「結果」は「結果」で道徳的評価に影響するのだが、あくまで本来の評価対象は「意図」だというのがスミスの考えである。
さて、この行為の意図の良し悪しの評価も、「共感」による道徳体系を追求するスミスは、行為の結果の受け手への共感から説明しようとする。
スミスは定義する。報酬を与えられるべき「功(merit)」とは「感謝の適切な対象と認められるもの」であり、処罰を与えられるべき「罪(demerit)」とは「復讐心の適切な対象と認められるもの」である。
要するに、当事者の「感情=行為」を受け止める受け手の立場に、想像的に身をおいてみて、この受け手が「感謝を覚えるのももっともだ」「当然、感謝するべきだ」と思えるのなら、当事者の「感情=行為」は、その結果をもたらそうとする意図に照らして「功」と認められるのであり、逆に、「復讐心を覚えるのももっともだ」「当然、仕返しするべきだ」と思えるなら、「罪」ということになる。
この点を整理して、スミスは「感情=行為」の「適切さ」の評価は、その感情の当事者への「直接的共感」によるのに対して、「功罪」の評価は、当事者の行為を受け止める受け手への「間接的共感」によるという。
あるいは、これを二重の適切性評価、「適切さ」の評価の二重化と整理することもできるだろう。一方で、受け手の感謝や復讐心が、当事者の行為に見合っていて「適切だ」とされなければならないが、スミス自身も述べているように、ここには当事者自身の「感情=行為」の「適切さ」も関わってくるからだ。すなわち、「功」の場合には、当事者の行為も適切でなければならないし、「罪」の場合には、当事者の行為は適切であってはならない。
例えば、ある大金持ちが気まぐれに選ばれた貧しい人に大金を渡す(、そして、貧しい人が喜ぶ様子をショート動画にしてアップする)という場面を想像しよう。確かに、お金に困っている人が大金を得れば非常に嬉しいだろうし、その意味で受け手の感謝は適切でありうる。しかし、私たちはこの大金持ちの行為を掛け値なしに「功」だとはしないだろう。受け手がランダムに選ばれていたり、動画の企画として意図されていることによって、その大金を与える行為がそもそも適切ではないからだ。
ある貧しい人の勇敢な行為が大金持ちの命を救ったという場合ならいざ知らず、多くいる貧しい人のなかから、単にある一人をランダムに選び出して、それに大金を与えるのでは、「大金を与える」ことを正当化しうる、それに比例した「原因」がないのだ。
逆に、AさんがBさんに殴られたという場合、Aさんが復讐したいと思うことは適切だろう。ただ、実はその前にAさんがBさんをさんざん侮辱していたとすれば、Bさんの「罪」は軽減される。Aさんを殴るBさんの行為に、一定の「適切さ」が認められるからだ。この意味で、罪の認定には受け手の復讐心の適切さと当事者の行為の不適切さの両方が必要とされるのだ。
こういうわけで、スミスは当事者の「感情=行為」の結果をもたらす意図の道徳的評価を「功罪」の評価と呼んだが、それは当事者の行為の結果を受け止める受け手の感謝と復讐心との「適切さ」を評価する「間接的共感」に依拠し、また別の言い方では、受け手と当事者の両方に関わる「二重の適切さの評価」に依拠しているのである。
ただし、前項の最後に「「功」であるとは、「感謝される」の言い換えであり、「罪」であるとは、「復讐心を抱かれる」の言い換えなのである」と述べておいた通り、以上のようにして、功罪にいかに「適切さ=共感」が関わっていようとも、功罪という道徳的評価・道徳的価値の核心は「感謝」「復讐心」の方にあることは銘記されなければならない。スミスは「功罪」の評価を、感謝への共感、復讐心への共感から説明しているが、「功罪」を「功罪」たらしめているのは、「共感」の方ではなく、「感謝」「復讐心」の方なのである。
2-2、スミス徳論体系の構成
さて、こうしてスミスは道徳的評価の問題を「共感」によって説明した。当事者の「感情=行為」は、その原因との釣り合いの観点から、その「適切さ」が評価され、その結果の観点から、その「功罪」を評価される。前者は観察者が「当事者に共感できるか(直接的共感)」という問題であり、後者は観察者が「当事者の行為の受け手の感謝や復讐心に共感できるか(間接的共感)」という問題であった。
このように「共感」によって道徳的評価の問題が説明された後で、では、スミスの徳論はどのように構成されることになるのか?もちろん、「共感」から出発してである。
ここで「徳」とは道徳的な卓越性であり、道徳的評価の最高位にして、また私たちが道徳的に目指すべき境地を指し示すものである。スミス曰く「ふつうに見られる程度の行いには徳はない。徳とは、比類なく偉大で美しく、世間一般の水準からかけ離れた卓越したものである」(p.91)。それは単に「是認」されるのではなく、「称賛」され「感嘆」されるのである。
スミスの徳論は、自身の幸福に配慮し、それを首尾良く実現していく「思慮」、他者の幸福に配慮し、それを促進する「慈愛」、他者の幸福に配慮し、それを妨げないこととしての「正義」、自己の感情を抑制し統御する「自制」の四つから主に構成される。
このうち「慈愛」と「自制」は、さきに私たちが共感を実現するための当事者と観察者の相互努力と呼んだものから導出できる。すなわち、当事者の感情に寄り添おうとする観察者の努力の極限に現れるのが「慈愛」であり、観察者が共感しうるように自らの感情を抑制する当事者の努力の極限に現れるのが「自制」である。
また、「慈愛」を、観察者においてではなく、当事者において考えるなら、他者の幸福のために行為し、他者の感謝の適切な対象となる善行を行い、「功」を成し遂げることが「慈愛」を体現する行為となる。
対して、他者の幸福を阻害し、他者の復讐心の適切な対象となる「罪」を犯さないことが、とりもなおさず「正義」の徳を体現することである。
では、最後に「思慮」はどうなのだろうか。これについては人は悲しみよりも喜びに共感しやすいというスミスの考えと関連づけるのが良いだろう。「共感」自体は常に快だが、喜びへの共感は喜び自身が快であることで曇りなき快なのに対して、悲しみへの共感は悲しみ自身は不快であるために曇りなき快というわけにはいかない。だから、悲しみよりも喜びの方が共感しやすいのだ。
そして、「思慮」とは自らの幸福に配慮し、それを首尾良く実現していくことを可能にする徳として、自らの喜びを増やしていくものであって、だからこそ共感され「是認」されやすいのだということができるだろう。
このように四つの徳、「思慮」「慈愛」「正義」「自制」はすべて「共感」と関係づけられるのだが、このうちスミスによって特に重要な役割を与えられているのが「自制」である。それは他のすべての徳の実現を確実にする要の役割を与えられている。それは「自制」だけが、スミスの「共感」の道徳哲学体系における道徳性の根本メカニズム、すなわち、他者の共感という道徳的評価を意識しつつ、自らの感情や行為を制御する当事者の努力と直接に関係しているからだろう。
スミスによれば、他の三つは、「思慮」は自己への愛、「慈愛」と「正義」は他者への愛という別の主要な源泉となる感情を持つのに対して、「自制」だけは、この「共感」という感情経験にこそ主要な源泉を持っているのだ。
さて、以上のようにして、スミスの四つの徳は共感に基づく道徳論によって体系化される。かくしてスミスは共感に基づく道徳体系を構成するのだ。
3、道徳感情論の裂け目―感情 vs. 理性、あるいは自然・哲学・宗教
さて、本書のタイトルは『道徳感情論』である。このタイトルは何を意味しているのだろうか。やや奇妙なことだが、タイトルに冠している「道徳感情」という言葉をスミスが明示的に取り上げ説明することはない。
だから、私たちはその意味を少々解釈する必要があるのだが、そうしてみると、それは、一方では、道徳の問題を感情という視点から論じるというスミスの宣言であり、他方では、その結果として見えてくる事態、人間は感情(=道徳感情)を通じて道徳判断を行い、それに導かれて道徳を実践するということを指し示しているのだろう。人間は「共感」「感謝」「復讐心」などの感情によって道徳的に良いことと悪いことを見分け、感情に導かれて道徳を実践し、社会秩序を作り上げる。実際、上で確認してきたようにスミスは「共感」という感情現象に道徳判断を基礎づけ、そこから道徳哲学の体系を構築した。
しかるに、本書を素直に読んでいくと、『道徳感情論』は「道徳感情論」として挫折した、あるいは少なくとも、「道徳感情論」、その共感による道徳哲学体系には「裂け目」が走っているといえるだろう。その裂け目から、理性と哲学が、そしてさらには宗教が、顔をのぞかせているのである。
この「裂け目」をこの上ない仕方で示唆しているのが、「道徳感情」という言葉の使われ方である。先に述べたように、スミスはこの言葉を説明しない。そして、書名として冠している割にはあまり使わない。いまの文脈で重要なのは、スミスがこの言葉を使っているなかで目立つのは、その「堕落(corruption)」を語る場面だということである。
3-1、道徳感情の堕落―富と権力が生む「共感の自己強化ループ」
さて、『道徳感情論』は何度か改定されており、最後の第六版でも大幅な改訂が行われた。そこで追加されたのが、第一部第三篇第三章「富や権力を持つ者を賛美し、貧しく地位の低い者を軽蔑あるいは無視する傾向に起因する道徳感情の堕落(corruption)について」という章である。この結果、『道徳感情論』のタイトルや目次を抜いた本文において、「道徳感情」が初めて登場するのは、「道徳感情の堕落」という形でなのである。
さて、この道徳感情の堕落とはなんなのだろうか。順を追って見ていこう。
先に見たように、スミスによれば、人間は悲しみよりも喜びに「共感」しやすい。その方が共感の快に、喜び自身の快が加わり、より快が大きいからだ。ここから人々は喜びに満ちているように見える富や権力を持つ者に共感しやすく、悲しみに暮れているように見える貧者や弱者には共感しにくいということが出てくる。それは、とりも直さず、前者を道徳的に是認・賛美・崇拝し、後者を道徳的に否認・軽蔑・無視する傾向を生み出す。
それにしても、なぜ富者や権力者は喜びに満ちているように見えるのか?もちろん、それはさしあたり彼らが物質的に恵まれているからである。だが、ポイントはそこにはない。
富者や権力者はまずは物質的に恵まれていることで喜びの象徴となり、人々の共感の対象になる。ポイントは、すると、人間は共感をこそこの上なく求めるのだから――この前提にスミスの道徳哲学全体が基礎付けられていたことを思い出そう――富者と権力者は共感を一身に集めることで、なおのこと喜びの象徴となり、共感の対象となる。共感の対象となることで、より一層、共感の対象となるというポジティブ・フィードバック、自己強化的なループが発生するのだ。そのなかで富者や権力者への共感は、是認から賛美・崇拝へと高まっていく。スミスの語ることを整合的に解釈すれば、そのような物語が見えてくる。
さて、これがすでにして道徳感情の堕落だ。スミスの道徳哲学構想によれば、人間は感情という理性よりも直観的な能力を通じて、道徳的な良し悪しを判定し、徳を自ら求め他者に推奨し、悪徳を避けるべきものとみなすはずだ。しかるに、富や権力が生み出す共感の自己強化ループは、徳ではなく富と権力を求め推奨し、悪徳ではなく貧しさと社会的な弱さを避けるべきものとみなす。そして、それは「富と権力を得るために、徳などかなぐり捨てろ」という態度すら生み出していく。
『国富論』の利己性と『道徳感情論』の利他性の矛盾を言い立てる「アダム・スミス問題」なる問題設定が的外れなのも、まさにこの点に関わる。スミス自身が、人間が利己的に富や権力をやたらと追求する理由は、この共感の自己強化ループのためだと明言しているのだ。
人々があくせく苦労するのは何のためなのだろうか。強欲、野心、金銭欲、権力欲、出世欲の究極の目的は何だろうか。必需品を手に入れるためだろうか。それならごくふつうの労働者の賃金でも十分に可能であり、現に彼らは自分と家族の衣食住を賄っている。(…)共感、好意、是認をもって他人から見られ、遇され、認められること―私たちがこの目的の追求から得ようとする利益は、これに尽きる。私たちを駆り立てるのは虚栄心であって、[必需品がもたらす]安寧や快楽ではないのである。ただ、その虚栄心は、自分は世間の注目と是認の対象であるという信念の上に成り立っている。(p.147-148)
すなわち、スミスにとって矛盾というものがあるとすれば、『国富論』の利己性と『道徳感情論』の「利他性=共感」の間にあるのではなく、『道徳感情論』そのもののなか、その中核概念である「共感」の中にあるのだ。
確かに、一方では人間は共感を求めることによって、自制・慈愛・正義といった(「利他性」を含意する)徳へと導かれるのだが、富と権力が生み出す「共感の自己強化ループ」は、共感を求める人間をして、すべての徳をかなぐり捨てて富や権力を「利己的」に追い求めさせることにもなりかねない。
そして、この意味での矛盾こそ、スミスが『道徳感情論』を道徳「感情」論として貫徹しえなくした躓きの石、裂け目なのである。続いて、そのように言える事情を見ていこう。
3-2、「神の見えざる手」と、それでは解決されない問題について
そもそも、スミスはなぜ道徳「感情」論を志向したのか。すなわち、なぜ「理性」ではなく「感情」を重視したのか。それは道徳と社会秩序を理性のような「のろくてあやふや」な能力ではなく、感情という「瞬時に本能的」に働く能力に基礎付けたかったからだ。そして、スミスの哲学の代名詞となっている「神の見えざる手」が表現しているように、スミスの基本的な世界観は、物事がうまくいくように神が感情の仕組みをうまく作っておいてくれたのだというものである。引用しよう。
人間は、社会の幸福と存続を願う欲求を生まれながらにして授けられているのではあるが、自然の創造主は、この目的にある種の罰の適用が適切な手段であることを、人間が理性で理解できるようにはしておかなかった。代わりに、目的達成に最も適切な罰の適用そのものを瞬時に本能的に是認する能力を人間に授けておいた。自然の摂理は、この点においても、他の多くの場合とまったく同じように働いている。自然にとって特別に重要な目的、こう言ってよければ自然のお気に入りの目的のすべてについて、自然はつねに先ほどのような方法で、意図した目的を人間が追求したくなるように仕向けておいた。それだけでなく、目的達成のための唯一無二の手段をも、(…)それ自体として追求したくなるように仕向けておいた。かくして自然は動物をつくったときに、自己保存と種の繁栄を二大目的として定めておいたのだと考えられる。人間はこの目的の達成を願う欲求と、目的に反することへの嫌悪を授けられている。すなわち、生への愛と死への恐れ、種の存続への希求と絶滅に対する嫌悪を与えられている。とはいえ自然は、こうした目的への強い欲求を私たちに授けはしたものの、実現のための適切な手段を見つけることに関しては、私たちの理性ののろくてあやふやな決断に委ねてはいない。生来備わっている直接的な本能に従って目的の大半に向かうよう定めている。飢えや渇き、男女の情念、快楽の欲求と苦痛の恐怖といったものは、これらの手段それ自体を追求するように私たちを駆り立てる。(p.201-202)
このように自然の創造主(=神)の偉大な設計を謳いあげるスミスは、先に見た共感の道徳体系が孕む矛盾、富と権力が生み出す「共感の自己強化ループ」と、それによる道徳感情の堕落、虚栄心の暴走に直面しても、まずはそこに神の偉大な設計の意図を読み取ろうとする。つまり、一見、問題に見えるが、それもやはり良い目的に奉仕していると擁護するのだ。
その議論は2点によって構成される。順に見ていこう。
第一は、富者や権力者への共感によって社会秩序が安定するというものである。富者や権力者の尊重は、とりもなおさず、その社会の支配層の尊重だからである。さきに社会秩序を成立させる機序として、当事者と観察者の相互努力を挙げたが、それが水平的なヨコの秩序形成・維持メカニズムとすれば、この支配者への共感はそれを補完する垂直的なタテの秩序形成・維持メカニズムだと位置付けられるだろう。この二つが論じられていることからすれば、スミスは社会秩序の根本的構成要素として、このタテとヨコの関係性、その双方が重要な要素だと見ていたと考えてよいだろう。
第二は、共感の自己強化ループによっていわば「喜びの権化」「幸福の権化」のように見えるようになった富者を、ただひたすらに目指すような人々が存在することで、社会に物質的な繁栄がもたらされるというものである。スミスは言う。
[富者を幸福の権化のように見せることで]自然がこんなふうに私たちをだますのは、結構なことである。この自然の策略こそが、人間を勤勉に目覚めさせ、労働に励ませるのだ。(…)傲慢で冷酷な地主は自分の広大な農地を眺め、一族郎党の窮乏を顧みず、収穫を自分一人で食べ尽くしてやろうと考えるかもしれない。だが、そんなことはできない相談で(…)地主の胃袋は欲望の巨大さに見合うほど大きくはないし、貧しい農夫の胃袋よりたくさん詰め込めるわけでもない。したがって、残りを地主は分配せざるを得ない。自分が食べるわずかな分をとびきり上等に料理する人に、(…)邸宅を美しく整える人に、(…)調度品や道具類を制作し手入れする人に分配するのである。(…)彼ら[=地主]は見えざる手[『道徳感情論』で唯一の「(神の)見えざる手」の用例]に導かれて、大地がそこに住むすべての人の間で均等に分けられていたら行われたはずの分配とほぼ同じように生活に必要なものを分配し、意図せず知らずして社会の利益に貢献し、種の繁栄の手段を提供する。(p.400-401)
こうして、道徳感情を支えるはずの共感が、その実、道徳感情を堕落させるという逆説に対して、スミスはそれによって社会の秩序と繁栄が可能になると論じるわけだが、**それでも道徳感情の堕落という問題そのものが解決されたわけではない。**道徳を基礎付けるはずの感情が、逆に道徳を腐敗させるという根本的な問題は残るのだ。
また、先の引用は、ある意味では、それ以上に重大な問題を提起する。というのも、なぜここで「だます」という言葉が使われているのか?それは、とりもなおさず、スミスによれば「富・権力=幸福」という等式は幻想であり、スミスが執拗に語るところによれば、現実はその反対、富と権力をひたすらに追い求める道は不幸への直行ルートに他ならないからだ。
3-3、「富の道」が不幸への直行ルートである件について
さて、この点について本書のいくつかの場所で展開されるスミスの執拗な語りを見てみよう。その語りはしつこく、異様に生き生きとしている。この項はスミスの引用を多めにして、その雰囲気を感じ取っていこう。
まず、スミスの想定する幸福とは非常にささやかなものだ。スミスの言葉を聞こう。
健康で借金がなく、心になんらやましいこともない人の幸福には、それ以上何を付け加えられるだろうか。(p.138)
人間は、自分の置かれた持続的な境遇には遅かれ早かれ必ず慣れるものである。(…)すなわち、ある境遇と別の境遇との間には、真の幸福という点に関して本質的な違いはない。(…)幸福とは、心の平穏と楽しみの中にある。心がおだやかでなければ何事も楽しめない。逆に心が波風一つなくおだやかであれば、たいていのことが楽しめる。(p.333-336)
しかるに、人間はしばしばここにとどまることができない。それは境遇間の差異を過大評価するためだとスミスは言う。
人生をみじめにしたり混乱に陥れたりする大きな原因は、ある境遇と別の境遇との差を過大視することにあると思われる。貪欲は貧富の差を、野心は地位の差を、虚栄心は無名と名声の差を過大に評価する。こうした誇大な情念に支配された人は、現在の境遇をみじめだと感じるだけでなく、愚かにもあこがれるものを手に入れようとして、社会を混乱に陥れがちだ。(p.334)
地位の高い人の生活を思い描くとき、私たちはややもすると現実離れした色合いをつけがちである。そうやって想像した彼らの境遇は、完璧な幸福という抽象的観念そのままであるように思われる。(p.150)
さて、だとして、なぜ富や権力を目指すことは不幸への直行ルートなのか。
第一は、すでに以上の引用に表れているように、そのような追求には富や権力がないと不幸だと、普通の境遇を「みじめ」とみなす視線が前提とされているからだ。
第二に、富や権力を得ようとすることには大変な苦労を要求する。スミスの有名な「野心を抱いた貧乏人の息子」の例を引こう。
この貧乏人の息子は富と権勢の追求に一生を捧げる。だがそうした生活がもたらす利便性を手に入れるために彼が甘受する肉体的疲労と精神的苦痛は、努力を始めた最初の一年、いや最初のたった一カ月で、その利便性が得られない場合に一生引き受ける疲労と苦労を上回ってしまうだろう。彼は刻苦精励を要する専門的な職業で自分を際立たせるべく勉学に勤しむ。たゆみない勤勉さで昼夜をわかたず励み、競争相手よりすぐれた能力を得ようと努力する。次には自分の能力に世間の注目を集めるべく画策し、職を得ようと絶えず熱心に懇請する。そのためなら誰彼の機嫌をとることも厭わないし、憎む相手にも滅私奉公し、軽蔑する相手にも媚びへつらう。(p.395-396)
第三に、首尾よく富や権力を得たとして、それを得る過程で、その人の心は激しい競争のなかで傷つき、あるいは自身も不正を犯して良心にやましいところがあることがしばしばである。
肉体は苦労と病気で衰弱し、精神はと言えば、敵の不正行為や友人の背信忘恩のせいだと信じ込んできた無数の災厄と失望の記憶でずたずたに傷ついている。(p.396)
ようやく手に入れた地位に伴う名誉は、自身の目にも他人の目にも、そこに上り詰めるまでに使ったさまざまな卑怯な手段によって汚され損なわれたものとしか見えない。(…)自分が何をしてきたかを忘れることはできず、その記憶は、他人もまた忘れないのだと自覚させずにはおかない。はるか高い地位のきらびやかな栄華の中で、貴族や学者の堕落した卑しい追従の中で、罪はないが無知な大衆の歓呼の声の中で、征服と戦勝の誇りの中で、彼はなおひそかに、自らに復讐する恥と悔恨の炎に苦しめられる。(p.173-174)
第四に、富や権力を持つ立場は、よしんば安定していても「制約や自由の欠如」(p.150)が伴う一種の「奴隷生活」(p.161)で「高い地位を獲得したら暇な時間も気楽な暮らしも安寧もすべて永久に失われてしまう」(p.150)し、そもそも不安定で気苦労が絶えないことが普通である。
権力と富は、壮大な建造物のようなものである。建てるのに一生かかるのに、いつ何時崩壊して中にいる人を押しつぶすかわからない。建っている間は多少の不便を防いではくれても、猛暑や極寒からは守ってくれず、夏の夕立程度なら防げても、冬の吹雪は防げない。だからこの建造物の中で暮らす人は、相も変わらず、いやどうかすると以前よりもひどく不安と恐怖と心痛に悩まされ、さらには病気と危険と死に怯えることになる。(p.398-399)
第五に、実際に建物が崩壊し、富や権力を失った場合、人々の共感を一身に集めることの快楽を忘れることができず、もはやスミスが真の幸福と呼ぶ「心の平穏と楽しみ」に満足することができない。
世間の賛美の的になることに慣れた人、いやその可能性だけにでも慣れた人にとっては、他の喜びはすべて魅力を失い、かすんでしまう。失脚した権力者は、保身のために野心を抑え、もはや手の届かなくなった栄達を軽蔑しようと努力するものだが、それに成功する者はほとんどいない。大半は味気なく退屈な無為の時間を過ごす。自分がとるに足らない存在に成り下がったと考えては憤慨し、日常の生活の雑事にはまったく興味が持てず、気晴らしと言えばかつての華やかなりし日々を語ることだけで、栄華を取り戻す無駄な企てに没頭しているとき以外は鬱々として楽しまない。(p.161-162)
こうしたすべてを踏まえてのことだろう、スミスはこのように読者に告げる。
読者諸氏は、自由な生活を宮廷のきらびやかな奴隷生活とけっして交換せず、ひたすら自由に、何者も恐れず何者にも頼らずに生きる覚悟ができているだろうか。この毅然たる決意を守りぬく方法は一つあり、おそらくは一つしかない。それは、ほとんどの人が引き返せなくなってしまうあの領域、すなわち野心の領域にけっして足を踏み入れないことだ。そしてまた、すでに大勢の人の注目を独占している支配者と自分を比べるような愚を犯さないことである。(p.161)
こうしたスミスの粘着質ともいえる語りは、私には、自らが道徳を基礎づけるものだと思った「共感」が、富と権力が生み出す「共感の自己強化ループ」によって、他の何にもまして道徳を破壊するものへと転化してしまうという矛盾、真の意味での「アダム・スミス問題」と呼びうるものに対するスミスの必死の抵抗に見える。
しかし、いくら必死に抵抗したところで、共感は快であり人間は共感を求めるというスミス道徳哲学のもっとも根本的な前提からは、人間が徳へ向かうという「徳の道」と、時には徳をかなぐり捨てて富を求める「富の道」の二つの道が伸びていることは否定し難い。
スミスの「富の道」批判は、そこに幸福がないことを暴露することで、「共感の自己強化ループ」の根本を断とうとするものといえるが、すでにループが起動している以上は、究極的な幸福の有無など問題ではなく、共感される喜びが共感を呼ぶ構造を止めることはできない。
かくして、スミスの道徳「感情」論は躓きの石にぶつかる。共感という感情的原理に頼るだけでは、必ずしも道徳を支えることはできない。ゆえにスミスは感情とは別のものを呼び出さざるを得ない。すなわち、一度は「のろくてあやふや」だとスミスが断じた「理性」であり、彼の有名な「公平な観察者」である。
3-4、「公平な観察者」について―感情 vs. 理性、あるいは自然・理性・宗教
さて、スミスの『道徳感情論』で「共感」に次いで有名(で重要)な概念である「公平な観察者」だが、なぜ、スミスはこの概念を強調するようになっていったのか。
もちろん、「実際の観察者」、現実の他者たちが頼りにならないという認識が深まったからに他ならない。
それが頼りにならず、それに従うことが「道徳感情の堕落」をもたらす最大の事例が、いままで述べてきた富や権力自体に圧倒的な共感と是認を与えてしまう人々の傾向である。
また、スミスが挙げているもう一つの「堕落」事例が、党派対立や国家同士の対立における共感の暴走である。実際の観察者の共感は、このような対立の事例において、公平に判断するのではなく、自陣営を持ち上げ、他陣営を叩く偏った言動に共感と是認を集中させて、分断・対立を激化させる方向へと先鋭化させていくのである。
このような「堕落」に直面して、スミスは「道徳感情を堕落」させる張本人である「実際の観察者」ではなく、私たちの内側に「公平な観察者」をいやましに強調せざるを得なかったのだ。さて、この「公平な観察者」のことを、スミスは「理性」とも呼んでいる。
ここで[自分の小さな利益のために他者に大きな不利益を与えるのを防ぐように]作用するのは、もっと強くて有無を言わせない力――理性であり、原理であり、良心であり、胸中の住人、内の人、自分の行動の偉大な裁判官にして審判者である。(p.314)
さて、この「理性」とも呼ばれる「公平な観察者」は何をするのだろうか。
一方で、スミスは、自らの道徳哲学があくまで道徳「感情」論であることは譲らないだろう。人間は共感を求め、共感(可能性)によって道徳的に判断し、共感されるために徳の方向へと導かれる。道徳的判断も、道徳へと向かう動機づけも、共感という感情現象に基礎を持っている。
他方で、これまで述べてきた通り、共感という感情だけに全てを委ねていては、道徳は基礎付けられるが、同時に堕落し崩壊していき、徳の実践も人間の幸福も保証されない。
ここで理性の介入が必要になってくるのだが、この理性がすることは、スミスの議論を適切に解釈すれば、以下のようなことになるだろう。
理性は、共感によって道徳が基礎付けられた後、それが堕落する前にやってきて、そこで得られた道徳感情を徳の原則へと一般化する。この一般化により、私たちは実際の観察者の共感から独立できる。
すなわち、私たちは、まずは実際の他者に「共感される/されない」経験から道徳的な良し悪しを知るのだが、その経験を一般化して、「これこれをするのが良いことで、これこれをするのは悪いことだ」という原則の形にしておけば、実際の他者の共感は不要となる。そこで問題になるのは、行為が「現実の他者に共感されるか」ではなく、「原則を守っていて、共感されるべきものか」、「現実の他者に称賛されるか」ではなく、「原則を守っていて、称賛に値するか」ということなのである。
それにより、私たちは富や権力に対する現実の称賛や、党派対立・国家間対立における身内贔屓の称賛から距離を取ることができるのだ。
さて、このように理性によって一般的な原則を確立し、それを適用することで私たちは自分の行動の良し悪しを自己判断できるようになるのだが、その良し悪しはあくまで共感を通じて学ばれたものであり、根本的には共感されうるか否かが基準であるから、これをスミスは胸中の「公平な観察者」による共感というふうに表現するわけだ。「原則を守っているか」「称賛に値するか」が「公平な観察者が共感してくれるか」と言い換えられるわけである。
あくまで道徳的な良し悪しの起源は共感経験にあり、理性による一般化を経た後も、それは「公平な観察者の共感」が問題なのだから、やはりそれは道徳「感情」論なのだということは可能だし、スミスはそういうだろう。
他方で私としては、共感という感情に任せるだけでは、道徳は成立しても堕落する以上、『道徳感情論』は道徳「感情」論としては貫徹し得なかったと言うべきだろうと考える。そこには「道徳感情の堕落」という、建物全体を崩壊させるほどの裂け目が走っており、それを埋めるには、道徳原則を一般化し、それを適用する「理性」に訴えるしかなかったのだ。一般に理性主義の典型とされるストア哲学のスミスへの影響が改訂を重ねるごとに増していき、「自制」が強調されるようになっていくのは、そのことの反映なのだと考えられる。
スミスの議論を素直に読むならば、理性とそれを司る哲学だけが、道徳を堕落から守って存続させ、また不幸への直行ルートとしての「富の道」に行こうとする人々を引き留め、彼らの幸福を守ることができると言われているように思われるのだ。スミスが哲学に対して肯定的に言及する文脈の一つは、それが「道徳感情の堕落」に対して常に抵抗してきたということなのである。
理性と哲学は道徳原則の一般化とその適用により、自然な感情の偏りを正し、「称賛されること」と「称賛に値すること」を区別した上で、後者の方がより本質的であり、後者に満足するべきことを教えることができるからである。
だが、最後に、スミスの議論にはもう一捻りある。理性と哲学によって私たちは「称賛されること」よりも「称賛に値すること」を重視することを学び、自然と感情が私たちを誘い込む道、ただ称賛を求める「富の道」ではなく、称賛に値することを求める「徳の道」に留まることができる。称賛に値しないのに称賛されるという、いわば「いわれのない称賛」を軽蔑することができる。
しかし、スミス曰く、私たちは「いわれのない称賛」に対して免疫があるほどには、「いわれのない非難」には免疫がない。だから、例えば、無実の罪で処刑されることになった人を理性と哲学は救うことができない。そこに来世での神の公正な裁きを説く宗教の意義があるとスミスは言うのである。
スミスはもともと神(自然)が上手くしつらえてくれた感情によって、道徳が成り立ち社会秩序が成り立ち、人間の幸福が保証されるという物語を語りたかったはずだ。それを語り得てこその「道徳感情論」だったはずなのである。
しかるに、スミスが直面した現実は、自然な感情が道徳を堕落させ、人間を不幸へと追いやるというものだった。だからこそ、道徳を守り人間に幸福を保証する役割は理性と哲学に引き継がれ、さらにある極限的な場合には宗教に託されることになった。現実は、それほど上手く作られていなかったのである。
これを大胆に現代に引きつければ、こういうことである。すなわち、感情は私たちをSNSの承認欲求ゲームの領域(現代版「野心の領域」)に連れ出す。理性と哲学は、称賛ではなく称賛に値することが重要であることを私たちに教えることで、その世界から私たちを守ってくれるが、いわれなき炎上騒動に巻き込まれた人には、来世の公正な裁きを語る宗教しか、もはや希望を語ることはできない。
さて、以上からすれば、「神の見えざる手」は、スミスが最初に想定していた形では、上手く働いていなかったと言わざるを得ないのである。
だからこそ、スミスの「神の見えざる手」は、『道徳感情論』では、個人をだまし、その幸せを犠牲にしつつ社会に繁栄をもたらすという仕方で現れざるを得なかったのだし、『国富論』(の通俗的解釈)では、個人の利己心の追求が市場を通じて社会的に最善の結果をもたらすという、マンデヴィル流の「私悪は公益」に幾分か類似した形でしか現れ得なかったのだろう。
その意味では、神の作りし感情の導きにより、道徳と社会秩序と人々の幸福が達成されるという、本来の美しい「神の見えざる手」の物語は、『道徳感情論』において、すでに死んでいたとすら言いうるかもしれない。
4、自己批判:「富の道」と「徳の道」の一致についてのスミスの構想について
以上が私なりの『道徳感情論』の読解であり、要約・解説なのだが、それに対しては一点、批判の余地があるだろう。すなわち、それが「道徳感情の堕落」という躓きの石による「道徳感情論」の行き詰まり、その結果としての「公平な観察者」の強調という読み筋を強調するために、「道徳感情の堕落」に対するスミスの解決策の一つを完全に無視しているのではないかという批判である。
これは確かに否定できない。スミスは、追従やおべっかや権謀術数で出世が目指される宮廷世界・貴族世界に対して、私たちの大半が属する中下層階級では、「徳の道」と「富の道」が一致すると論じているからである。というのは、このような普通の人々の世界では、堅実にいい仕事をすることが「富の道」に至る最善の方法であり、そこでは「徳」をもって励むことこそが決定的に重要だからである。
私たちは、この「徳なき富」が可能な上流階級と、それが不可能な中下層階級の差異を、政治の領域と経済の領域の差異、あるいは組織の領域と市場の領域の差異と考えることもできるだろう。前者ではなんであれ上位者の機嫌を取ることが本質的であるのに対して、後者では買い手に対して満足いく財やサービスを提供することが本質的なのであり、この後者には「徳」が不可欠であるように思われるのだ。
その意味では、スミスが市場経済を論じる『国富論』に託したことの一つは、このように「徳の道」と「富の道」を一致させる「神の見えざる手」の作用だったといえるかもしれない。『国富論』(の通俗的解釈)で語られる「神の見えざる手」の意義を、先に述べたマンデヴィル的なものよりも高尚なものとして解釈する余地がありうるように思われるのである。
共感の暴走が孕む「道徳感情の堕落」に対する解決策は、一方で『道徳感情論』の「理性=公平な観察者」であり、他方で『国富論』の「市場」であるという整理ができるかもしれない。
5、補論:スミスにおける感情と理性の緊張関係を展開する
ここでもう一度、スミスにおける感情と理性の緊張関係について整理し、その含意を追跡してみよう。
ここで感情と理性の緊張関係とは、スミスにおいて、感情は道徳を基礎づけるものでありながら、道徳を堕落させるものでもあって、理性がその堕落を防ぐものであるという点にある。
さて、富や権力の崇拝という道徳感情の堕落の利点は、支配者が崇拝されることで上下関係という形での秩序が維持されることと、富や権力の追求を奨励することによって結果として経済的な繁栄がもたらされることにあった。
その欠点は、道徳感情が堕落して、徳をかなぐり捨ててまで富や権力を求める傾向が広がること、そして富や権力の追求において、人々の幸福が毀損されることにあった。
理性は、この道徳感情の堕落に対抗するわけだが、その対抗が成功すれば、それはその欠点を取り除くだけでなく、利点も取り除くことになるだろう。
すなわち、それによって人間の道徳性と幸福は守られるだろうが、一方で繁栄と秩序が失われることになるのだ。
いや、本当にそうなのだろうか?
以上の議論が正しいとすれば、失われうるのは、3-2で導入した言葉を使えば、上下関係的な「タテ」の秩序原理であり、「共感を目指す相互努力(≒道徳)」に基づく「ヨコ」の秩序原理は失われるどころか、堕落から守られ、促進されることになるだろう。
しかし、経済的な繁栄は失われるのではないだろうか?確かに、そのことは否定できないものの、近代の起点であったスミスの時代ならいざ知らず、その終点付近に立っていると思われる私たちの時代に、経済的な繁栄はそれほど躍起になって追求されるべきものなのだろうか?
このように考えてくるならば、道徳感情の堕落を理性の働きで押しとどめるというスミスの最終的ビジョンは、現代の十分に経済成長を果たした成熟の時代にあっては、繁栄を失わずに十分な経済的厚生を維持しながら、共感に基づく道徳を腐敗から守り促進することで、タテの秩序原理をヨコの秩序原理に置き換えていく、いわば自由かつ平等な社会のビジョンとして、いや増しに輝きを放ちつつあるとはいえないだろうか。
6、おまけ:現代思想と現代経済学はスミスに回帰したのか?
それにしても、このように読まれたスミスは、ある種の現代思想や現代経済学に異様なほど近くはないだろうか。あくまで「おまけ」、一種のヒントとして、そのことを示唆しておきたい。
まず、スミスが到達した人間の道徳性の感情と理性への二重化は、現代経済学の一角をなす行動経済学の理論としてのシステム1・システム2にいくらか似ている。
行動経済学は、合理的経済人の前提を持つ経済学の批判的検討から出発した。さまざまな実験を行い、人間がどれほど合理的なのかを突き止めようとした。その結果、人間はさほど合理的ではなく、さまざまな「認知的バイアス」を持つことが示されてきた。
その認識を集大成する理論が、システム1・システム2だ。人間はふつう、さまざまな問題に対し、それぞれに直観的な解答を与える、バイアスまみれのシステム1を利用しているが、それが行き詰まったときシステム2を起動して意識的に思考するモードに入るというのだ。
このような思考を道徳の領域に展開したとみなしうるジョシュア・グリーンは、システム1的な直観的判断は、個人と集団の間では集団を尊重するように働いて道徳を上手く機能させるが、集団対集団になると対立を煽る形となって上手く機能しなくなると論じた。そこにシステム2の発動の必要があるというわけだ。これは党派対立や国家間対立において「道徳感情の堕落」が生じるとしたスミスの診断と全く一致している。
あるいは、スミスが語る自然がしつらえた感情の仕組みの話は、現代の遺伝学ないし進化論の思想的集大成である『利己的な遺伝子』の思想にいくらか似ていないだろうか。スミス風の「神が設計した自然」という前提を、ダーウィン以降の自然淘汰の意味に読み替えれば、もうそれはほとんど『利己的な遺伝子』ではないか。
スミスは、神が設計した自然は動物を作る際に「自己保存と種の繁栄」という二大目的を定め、その実現を保証するように「感情」を組み立てたと語る。現代の遺伝学ないし進化論は、自然淘汰の結果として、遺伝子が存続・拡散されるように、遺伝子の乗り物としての生物ができているとみなす。進化心理学は、その観点から人間の感情を語る。
そして、『利己的な遺伝子』によれば、利己性の主体として語られるべきは遺伝子であり、人間個体ではない。人間個体は遺伝子の乗り物に過ぎず、遺伝子の存続・拡散の観点から、利他的に振る舞うこともありうる。人間が子供に対して利他的に振る舞うのは、それが遺伝子の利己性に合致するからなのだ。人間個体は遺伝子が広まるように出来ており、幸せになるようにはできていない。まさにスミスの感情が、社会の秩序と繁栄を可能にするが、人間の幸せを保証しないのと同様に。
最後の希望も似ている。『利己的な遺伝子』は、人間だけが遺伝子の利己性に対して反乱を起こす能力があると語る。『道徳感情論』もそうなのだ。
人間には感情を統御しうる理性があるのである。
このように現代の知見とスミスの類似性を考えるのも、一つ興味深い試みたりうるだろう。


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