哲学は死の練習?ソクラテス・プラトンのこの主張が間違っている理由

哲学は死の練習?

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一枚要約

哲学は死の練習ではない

「哲学は死の練習」であるという、哲学のゴッドファーザーとでもいうべきソクラテス・プラトンによる哲学の特徴づけは、一定の影響力を持っている。なんといってもソクラテス・プラトンの言葉であるし、意外性があるのに通りがよく、つい言いたくなってしまう魅力のあるフレーズである。

さて、しかし、このフレーズが出現した文脈を完全に把握すれば、多くの現代人にとって(あるいは少なくとも私にとって)、この主張は間違いであることが分かるだろう。今回はそのことを簡単に論じたい。

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目次

『パイドン』における「哲学は死の練習」

この主張が現れるプラトンの対話編『パイドン』は、死刑執行の日のソクラテスの対話を描いたものである。ソクラテスは前向きに死んでいくため、魂の不死を論証しようとし、それをめぐって疑問を抱くソクラテスの弟子や友人たちと議論を交わしていく。

この議論の冒頭近くに置かれているのが「哲学は死の練習」という主張だ。ソクラテスの死を目前として動揺する弟子や知人たちを前に、ソクラテスは「哲学は死の練習」なのだから、哲学に専心してきた自分のような哲学者は、自らの活動にとっての本番である死に際して、前向きに、喜んで、希望を持って進んでいくのだと宣言し、そう悲しまないようにと諭すわけである。

なぜ「哲学は死の練習」なのか

では、なぜ「哲学は死の練習」なのか?その論理は以下のようなものだ。

この主張の最大の前提は、『パイドン』で論証されるべき「魂の不死」だ。ソクラテスの主張によれば、死とは「魂と肉体の分離」であり、死後、人間は肉体と切り離されて純粋な魂となるとされる。これがソクラテスのいう「死」である。

では、「哲学」の方は?哲学とは思考に集中することであり、まさに魂と肉体が結びついている生前において、ソクラテスによれば認識を曇らせるものである肉体を抑制・没却し、真理を求めて魂(思考)に集中することこそが、哲学に他ならない。ソクラテス曰く「哲学者は他の人々とは際立って異なり、できるだけ魂を肉体との交わりから解放する者」(p.32)なのであり、哲学者は「魂を肉体のあらゆる部分から自分自身へととり集め、自分自身として凝集するように習慣づける」(p.39)者なのである。

以上の「死」と「哲学」の認識から、「哲学は死の練習」であるというテーゼが出てくる。哲学は生前において魂を肉体からできる限り切り離そうとする試みであり、死は魂と肉体の切断である。だから、哲学は死ぬ前に死の状態に可能な限り近づこうとすることなのであって、それゆえに「死の練習」なのだ。

肉体こそが認識を曇らせると主張するソクラテスにとって、死んで純粋な魂となることは、真の知恵を獲得することそのものであり、また知恵をもつものとの交わりのなかに入っていくという希望を伴うものであって、自分が絶えず目指してきた境地に到達することなのである。

魂の不死を認めなければ、この論理は成立しない

さて、この論理に説得力がないのは、哲学が肉体を消去して思考(魂)に集中することであることを認めたとしても(ここにも大いに疑問はある、肉体がなければいかなる認識もないという経験主義的な疑問が)、死が「魂と肉体の分離」であり、人間が「純粋な魂になること」であるということは、多くの現代人にとって(あるいは少なくとも私にとって)認められないからだ。『パイドン』の中心は「魂の不死」の論証だが、その論証に説得力を感じる人もほとんどいないだろう。

かくして、確かに哲学は肉体ではなく魂(思考)に集中することかもしれないが、多くの現代人にとって(あるいは少なくとも私にとって)死は肉体からの魂の解放ではなく、魂・思考・意識そのものの消滅である。

とすれば、魂に集中することとしての哲学は死に全く似ておらず、むしろ魂を消去する死は哲学そのもの正反対であり、哲学の全否定であるということが適切だろう。というのも、哲学が集中してきた思考そのものがそこで消滅するのだから。

『パイドン』は死を前にした自分への言い聞かせでもある

プラトン・ソクラテスの名誉のために言っておけば、『パイドン』の「魂の不死」の論証全体が、死を目前にしたソクラテスが前向きに死んでいくために自分に言い聞かせるという側面があることは、本文でも認められている。

まわりの人々に、僕が語ることが真実であると思い込ませようと、僕は躍起になっているわけではない(…)そうではなくて、とりわけ僕自身にそうだと思わせたいのだ。というのは、(…)僕はこういう計算をしているのだ。(…)僕の話していること〔=魂の不死〕が真実であれば、僕がそれを信じているのはもちろん良いことだ。これに対して、もし死者にとって虚無が待ち受けているのみだとしても、少なくとも死を目前にしたこの時間のあいだは、[魂の不死を信じている]僕は嘆き悲しんで周囲の諸君に不快感を与えることもより少なくなるだろうし、僕のこの愚かな信念の方はながくは続かず(…)もう間もなく消滅してしまうことだろう。(p.112)

だから、『パイドン』全体は、死を前にした人の自分への言い聞かせとして、人間的には理解しうる。ただ、だからといって「哲学は死の練習」という主張が正当化されるわけではない。

哲学は「死の練習」ではなく、死との対峙である

哲学は、現代において有意義であり、また独自の存在であろうとすれば、魂の不死を論証して自らを死の練習と位置付けるのではなく、ここでソクラテスもちらりと触れている「死者にとって虚無が待ち受けているのみ」ということを前提に、死を他の一切のものと同様に哲学自身をも否定しさるものとして把握した上で、自らをそのような死と関わること、いわば、死との対決、対峙、向き合い、取り組み、ふれあいとして位置付けるべきだろう。

「魂の不死」は、もちろん、それを合理的に否定し切ることもまた不可能なのだが、やはり、信仰と宗教とに委ねられるべきなのであって、哲学の仕事ではないように思われるのである。

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