この記事は約3分で読めます。
一枚要約

「経済学の古典を読む」シリーズの第三弾は、カール・マルクスの娘婿で、自身も社会主義者だったポール・ラファルグの著作『怠ける権利』、その表題作「怠ける権利」の要約・解説を行う。
19世紀の後半に書かれた「怠ける権利」は、風刺でもあり扇動でもあるような、過剰なレトリックに包まれてはいるものの、その骨格のみを取り出すなら、労働の過剰な価値化を批判し、その反対物としての怠惰を擁護するための、もっとも基本的で強力な経済学的論理をすでに提示している。
さて、その論理を見る前に、まず全体の主張を述べればこういうことになる。
現代社会では、労働が過剰に価値化され、一種の信仰になっている。これはブルジョワ社会の宗教・経済学・道徳が、労働者をこき使うために「労働のドグマ」を植え付けているとも言えるわけだが、当の労働者の方も本気になってしまっているようで、「働かざるもの食うべからず」の標語を積極的に掲げて、労働者には「働かない」ように見える資本家に労働を強いようと反乱を起こしたりしている。
すなわち、労働者も「労働は価値がある」という前提のもとで、それを全員に課そうとしているのであって、労働の反対の「怠惰(余暇)」を要求しているのではないのである。しかし、労働者が本当に主張し獲得するべきなのは、労働の権利ではなく「怠ける権利」なのだ。
では、この主張を正当化する論理とは、いかなるものか?
その経済学的な論理だけを取り出すならば、それは要するに、恐慌と海外市場をめぐる植民地的争奪、すなわち後に帝国主義と呼ばれるような運動を避けるために「怠ける権利」が必要だ、という論理である。
経済恐慌とは何か?商品が売れ残り、その商品を作る企業が潰れ、そこで働く労働者も売れ残り、失業して貧困に陥ることである。
なぜ、そんなことが可能なのか?機械化が進んで生産性が上がっているなかで、労働者がガムシャラに働くことで、需要を上回る商品の供給がなされてしまうからだ。
いや、それは可能であるどころか、必然なのだ。なぜなら、劣悪な待遇で猛烈に働く労働者たちは、商品を買うお金も時間もないからである。
だから商品は必然的に余ってしまい、それを消費するには資本家に贅沢を強要するのではまったく足りない。それゆえ、各国は商品の売り先を確保するために、市場としての植民地の奪い合いに走る。後に帝国主義と呼ばれるような運動であり、そのために植民地を巡る戦争と植民地の過酷な支配が生み出されるのである。
しかし、そんなことをしても、労働者が劣悪な待遇で猛烈に働き、生産はどんどん増えるが、消費は一向に増えないという構造を変えない限り、いずれは恐慌がやってくるのだ。
これを防ぐにはどうすればいいのか?労働者が「怠ける権利」を獲得し、例えば、一日三時間しか働かないことで、働かずに生産を減らしつつ、自らが生産したモノを消費するためのお金と時間を十分に持てるようにすることである。
現代的な経済学の言葉に翻訳すれば、それによって消費を増やし、生産と消費の極端な乖離を防ぐこと、供給と需要をより釣り合わせることである。これにより、売り先を確保するための植民地の争奪戦や、商品が有り余る豊かさゆえに多くの人々が職を失って貧しくなるという、この上なく愚かな恐慌を避けることができるのだ。
もちろん、このことはラファルグがこれを書いてから約150年経ち、格段の生産能力を獲得した現代にあっては、その当時よりも何倍も妥当になっている議論である。この傾向は、AIとロボットの21世紀にあって、加速することはあれ、減速することはあり得ないだろう。


※コメントは最大500文字、5回まで送信できます